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美人コンテストで優勝

 41sある日、母の会社のセールス部長が、“ミス繁昌”と銘うった美人コンテストの参加者を募集しているというニュースを教えてくれました。“ミス繁昌”というのも妙なタイトルですが、当時アメリカは不況の真ただ中にあったのです。

 私かこのコンテストに出場したいと母に話すと、母は同意してくれました。私が少女から大人になる18回目の誕生日を、ちょうどこのコンテスト期間中に迎えることになるのです。私にとって、それは忘れることのできない思い出となるでしょう。そんなこともあって、母は賛成してくれたのだと思います。

 コンテストは、一般人の投票によって行なわれました。そして、この。“ミス繁昌”のタイトルをめざす200人以上の女性の中から、私が優勝者に選ばれました。私にとって、それは大人への華やかなスタートでした。

映画スターヘの道

44sr 美人コンテストで優勝したことがきっかけで、映画会社の関心が私にも注がれることになり、私も映画スターヘの道を歩むことになりました。

 私はまず、グロウマンズ・チャイニーズ・シアターの舞台に出演することになりました。ハリウッドあたりをたずねたことのある旅行者ならご存知でしょうが、ここはあらゆる有名な映画スターが、セメントの上に手形、足形、それにサインを残している有名な劇場です。45その舞台が終わると、次にはパラウマント・スタジオの映画の仕事が始まりました。私は約2週間にわたって映画に出演し、初めてセリフをしやべりました。その後はメトロ・ゴールドメイヤーズ・スタジオに行き、J・クロフオードやC・ゲーブル、有名なダンサーであるF・アステアたちとともに3週間の出演契約をしました。私はさらに映画への野心があったので、サミュエル・ゴールドウィン・スタジオヘ赴き、有名なゴールドウィン・ガールズの一員に加わりました。

 そこで知り合ったのがL・ボール。彼女はやはり。ゴールドウィン・ガールズの仲間でしたが、後に『アイ・ラブ・ルーシー』のルーシー役としてたいへん有名になりました。彼女は私に衣裳部屋を提供してくれ、いつもだれにでも笑みを絶やさず、みんなから愛される愉快な女性でした。彼女にはすてきな妹と、たいへん親しみやすいお母さんがおり、ルーシーはなかなか親孝行でもありました。私は彼女が大好きで、たびたび二人いっしょに楽しい時間を過ごしたものです。

初めての皮膚障害

わたしの祖母は、セットで撮影中の私をよく訪ねて来てくれました。そして、撮影所のみんなからとても愛されました。

 スタジオで仕事をしている私にとって、ここにひとつ、やっかいな問題がありました。つまりスタジオ内では、スタジオが使用を義務づけているメイクアップを私も使用しなければならないということです。そのメイクアップとは、もちろん何年も前に母のもとにやってきたあのロシア移民者か生産しているものです。

彼のメイクアップは、母かかつて作ってあげたものとは似ても似つかないものとなっており、スタジオ内では。“ねりおしろい”と呼ばれていました。そしてそれは、化学物質をふんだんに混ぜこみ、さらに鉛まで含んだものでした。そんなメイクアップの使用を義務づけられた私は、生まれて初めての皮膚障害に見舞われることになってしまいました。アゴに激しい発疹が広がり、悲いかなとても醜い顔になってしまったのです。

 母に連れられて医師に診てもらったところ、メイクアップによる鉛中毒だと診断されました。そして、医師の分析によれば、80パーセントも鉛の化合物を含んでいるというのです。

 母の優れた手入れとすばらしい化粧品のおかげで、私はとてもきれいな肌をしていたものですから、この皮膚障害にはいささか母もガッカリしてしまい、新たに鉛中毒を治療できるような製品を創りあげようと決心しました。彼女はみごとにその製品を完成し、それを。「ピンク・アイス」と名付けました。それは冷たくて爽快で、まったく数日のうちに私の肌はよくなり、赤く炎症を起こしていた不潔な発疹はほどなく引いていきました。母も私もこれにはたいそう嬉しくなりました。およそ45日で発疹の軽い痕跡を残すばかりとなり、60日で奇蹟でも起こったかのように完璧に消え失せてしまいました。もちろん、このあいだ中私は依然として毎日メイクアップに行かねばならず、あの恐ろしい。“ねりおしろい”をつけていたわけですが、炎症がおさまるとメイクアップ室をさけて自分の化粧室へ直行し、母のメイクアップだけを使うことにしました。そして、ある日カメラマンが来て「どんな化粧品を使っているのかね」とたずねるまでは、だれひとりとしてこの変化をあやしむ人はありませんでした。私はスタジオから追いだされるのではないかと思い、カメラマンに答えるのを怖れました。そこで彼に「どうしてそんなことを聞くのですか」と言うと、彼は「近ごろの試写フィルム(彼らは毎日撮っているのですが)の中で、君はだれよりも目立っている。君の肌は生き生きしていて、まるで光り輝いているみたいだからさ」と言いました。私は説明に窮したので、彼に私の秘密を打ち明けますと、彼も秘密を守ってくれました。けれども画面に出るときは、私はいつもクローズアップで撮られることになりました。

 ルーシーと他のゴールドウィン・ガールズの女の子たちも、なんと私の肌が晴れ晴れしく、なんと新鮮に見えることかと注目しました。そこで私は彼女たちに、母のメイクアップを使っていることを話しました。私は彼女たちが告げ口することを怖れましたか、当然のことなからだれもけっしてそんなことはしませんでした。

 私は母のために、なんとそのスタジオでビジネスを開始しました。すると、私の母が新鮮な自然の油脂から作ったすてきな自然化粧品をもっているといううわさが広がり、私は、私が働いているところのあちこちに何十人もの顧客リストをもつことになりました。秘書や経理の女の子や女優の衣裳係の女性に、その日毎の商品の受け渡しをするために、たいそう魅惑的な衣裳を着、巨大な羽毛のずきんをかぶり、黒くて長いストッキングをはいた私のいでたちは、いささか奇妙に映ったに違いありません。そして私は、メイクアップ係の男性たちにもこっそり売ったものでした。きっと彼らだって、係りの女優の何人かにはそれを使ったことでしょう。というのも、彼女たちは画面の上でより輝かしく見えたからです。彼らは母の化粧品を使うことを公認することはできませんから、それはかたい秘密ではありましたが、私と母は、私が仕事をしているすべてのスタジオで、はなはだ大きな商売をしてしまったのです。そんなわけで、私は一風変わった方法でいっしょうけんめい母を助けながら、いっしょに働いたものでした。

世の認識不足に泣く

 私の皮膚障害がきっかけで母は「ピンク・アイス」と言う名のパックを開発しました。現在では別の名で販売されています。当時、「ピンク・アイス」の名はあるアメリカの会社がすでに商標権を出願していたためですが、今ではこの商標は私に帰属しています。「ピンク・アイス」の物語は、それ自体で一冊の本になるでしょう。いつの日か私は、その偉大なる成功、その破綻、そしてその栄光に満ちた再起のドラマを書いてみたいものです。

 私の母は、自然化粧品の化学者としてますます有名になっていきました。信じられないことですが、当時自然化粧品というものがいかに重要なものであるか、正しく理解している化学者はひとりもいませんでした。彼らは、人々が欲しているのはせいぜいメイクアップを拭い取るクレンジングだとか、皮膚の表面をソフトにするクリームだとか、色つきのメイクアップ化粧品ぐらいであると考えていたのです。けれども、だれもが認識しなければならないことは、ちょうど私たちの体が滋養に富んだ食品を必要としているように、皮膚もまた、日々新鮮な滋養を欲しているのだということなのです。けれども、従来の化学物質をいったん受け容れてしまった後では、ご婦人や男性の認識を変えさせることは容易なことではありませんでした。肌の健康と美容のためには、毎日滋養が必要であるという認識を植えつけることは、一朝一タに指導できることではないようです。

日本業者に一杯食わされた

 母はラジオ番組をもち、そしてその放送はアメリカのあらゆる地域の女性たちに届きました。このラジオ放送で母はひとつのキャンペーンを試みました。それは、キャンペーンとしてはまことに大成功だったと言うべきです。けれども、世の中はままならぬもの、思わぬ不始末が発生してしまいました。

 当時、母は「リキッド・パールズ」(液体真珠)と名づけた愛らしいメイクアップ製品をもっていました。それは、ひとつでいろいろな使い方ができる便利なメイクアップ・パウダーでした。彼女がコマーシャルの中で、「このメイクアップをお買い上げの方に、60インチ(約1.5メートル)のじゅずつなぎの真珠をさしあげます」と発表したところ、注文が殺到しました。あまり注文が多かったので、彼女は急きょ日本から真珠がいっぱいつまった箱を取り寄せなければなりませんでした。ところが日本からの荷をあけてみると、魚のにおいがあんまり強いので、数日空気に晒さなければなりませんでした。これは、日本の業者がガラス玉に魚のウロコの粉をまぶした模造真珠だったのです。私が思うに、母はそのとき、模造真珠の最大の輸入業者になってしまったのではないでしょうか。

第4部 女優時代へ

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