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誕生

12ロサンゼルスの東、ちょうどカリフォルニア半島のつけ根のあたりに、サン・ベルナルディーノという美しい山脈があります。ヨーロッパ人たちは、その山脈の美しさをよくスイスのアルプスにたとえます。南に向かって壮大に広がった裾野は、小さいながら開静で旅店瀟洒な街並をもつサン・ベルナルディーノの町を抱いています。私の両親は、この町のスプルース街に居をかまえておりました。

 2月7日、雪もようのたいへん寒い晩の午前2時、私はこの家で呱々の声をあげました。星占いに興味をおもちの方のために申し添えておきますと、私の星座は〝みずがめ座″ということになります。

 私を出産するとき、母の分娩はたいへん長く苦しいものだったそうですと言うのも、母はどちらかと言うと小柄な女性で、私の方は8ポンド半にまで生育し低宝です。難産のきざしが見えはじめたので、私は鉗子分娩によって人為的にこの世に引き出されることになりました。ご存知のように、鉗子分娩とは、ハサミのような器具で頭をはさんで引っぱりだす方法ですから、私の頭はかなりゆがんだりへこんだりして生まれて来たということです。けれども、私の母方の祖母は助産婦の経験かあり、何人もの赤ちゃんを取りあげたことがあるので、このとき彼女は少しもあわてず、練ったパン粉の形をととのえるように、ひずみを修正してくれました。生まれたての赤ちゃんというものは、それほど柔軟なものなんてすね。おかけで私は、ピカソが描く赤ちゃんから、レンブラントの赤ちゃんへと変身したわけです。

 一人の人聞がこの世に生を受けること、それはきわめて厳粛な儀式です。母はすべてのエネルギーと全存在をかけてこの荘厳な事業をやり遂げました。私もまたこの世の光、この世の空気を獲得するために、無から有への長い神秘のトンネルをくぐりぬけました。そして父も始終分娩室の中にいて、断じて母のかたわらを離れようとせず、母と私に愛を注ぎ込み、励ましつづけたのでした。

私のルーツ

16私の父はカナダ人、母はワイオミング州で生まれました。父方の家計には高貴な血筋をひく親族が多く、父の曾祖母はロンドン大司教口―・オズボーンの姉にあたります。また、父の曾々祖母はレディー・リンゲンと呼ばれ、リンゲン城に住んでいました。父の叔父のキャプテン・シーガーは、1588年、イギリスを攻略しようとしたかの有名なスペイン無敵艦隊の一翼を担っていましたし、その兄のサー・トーマス・シーガーはテンプル騎士団の一員で、聖地で戦い、このときの勲功によリマルタ十字をシーガー家の家紋として拝領しました。父のもう一人の叔父サー・ウイリアム・シーガーはガーターの騎士で、イングランド王のガーター爵位局長として家紋に王冠を用いることを許されました。サー・リチャ―ド・オブライエンは、私の父の従兄にあたる画家で、彼が描いたカナダの絵により、ビクトリア女王からナイトの爵に叙され、現在もモントリオールの有名な美術館に掲げられていますもう一人の従兄は、第一次世界大戦中のロンドンタイムスにおける論説の勲功により、14ジョージ5世よりナイト爵を授かりました。父の叔父サー・リチャード・ステアイングは、レディー・グウェンドリン・ステアリングと結婚し、ステアリング城に住んでいました。私の名前の〝グウェン〟は、彼女にちなんで私の両親がつけてくれたものです。

 私は、父方の家系から言えば、スコットランド系、イングランド系、ウェールズ系のアイルランド人ということになります。

 さて、母方の家系はというと、彼女の母はアイルランドとペンシルバニアオランダ人の血をひき、彼女の父はフランスとアイルランドの血をひいています。母の祖母はアイルランドのダブリンから未ました。そして、アメリカに来てすぐにワイオミングで4万エーカーの土地を買い、羊や牛を飼い、またダイヤモンド鉱山をも所有し、運営していました。アイルランドとオランダからやってきた私の曾祖父母以前の家系的背景については、私はほとんど何も知りません。

父の思い出

 私の父はなかなかのアイデアマンで、17歳のときに、あの衣類のシフをのばす電気アイロンを発明しています。でも、やがて人間の顔のシワをのばす手伝いをすることになるとは、夢にも思っていなかったでしょう。父は電気や機械に強かったのでしょうか、私が物心ついたころには、ボートや自動車用のモーターを生産する工場を経営しておりました。18200入の従業員を養い、彼自身は7台の自家用車と5隻のボートをもっておりました。私たちは、ワシントン州のシアトルに居をかまえ、シアトル湖畔にはすてきな太邸宅をもち、〝ジョッコ“という名のペットの猿を飼っていました。私かまだほんの小さな子供のころのことです。

 ある日、父は急性肺炎で重い病の床に伏しました。元来仕事熱心な彼は、会社の運営のことを考えると、ベッドにじっとしていられなかったようです。そして彼は、充分に回復するのを待たずに仕事に復帰してしまいました。そのために病はぶりかえし、衰弱し、ついには肺結核に感染して急速に進行させてしまったのです。彼はシアトルでの事業を放棄せざるを得なくなりました。彼に必要なのは安静と明るい太陽と澄んだ空気だったのです。私たちは、父の健康のために、アリゾナ州のフェニックスに引っ越すことになりました。

 私たちは、生活してゆかなければならず、新たな収入の道を切り開かなければなりませんでした。さいわい祖母は、自然の植物を原料とした化粧品を作る研究に昔から打ちこんでおり、1893年にはほぼその調合が完成していました。そこで母は、その調合を土台にして、市販するために必要な現実的問題に対処する処方を考えはじめました。父はといえば、暇ができたために例の発明熱にふたたびとりつかれ、あれこれ母の研究を手助けできる器材の開発に頭をひねっていたようです。

 ついに父は、母のためにスチーム・コンプレッサーという機械を発明しました。これは、母が庭で栽培している植物から、化粧品の原料となる油を抽出する装置でした。このスチーム・コンプレッサーのおかげで、母の自然成分を主体とする化粧品を市場に送りだすことが可能になりました。それは1915年、まだそんな化粧品は世界のどこを探してもお目にかかれない時代のことでした。 私が5歳のとき、私のすてきな父が亡くなりました。私は、父が亡くなった翌朔のことを忘れることができません。私が眠りから醒めると、母は頭をたれ、肩を落として泣いていました。そのとき、まだ私には何か起こったのかわかりませんでしたが、母の姿があまりに哀しかったので、私も母のもとに駆け寄って泣きました。母は私をきつく抱きしめ、そして払の涙を拭ってくれ、自分の涙も拭いながら、「ゆうべお父さまが天国へ召されました」と話してくれたのです。私は父をとても愛していましたので、それはそれは深い悲しみでした。父は、ロサンゼルスから50マイルほど離れた、カリフォルニア州のオンタリオに埋葬されました。

困窮に耐えて

 父の死後間もなく、母と私は、祖母の住むロサンゼルスの実家に引きあげました。父の病気で貯蓄は底をつき、生活の重みは母の肩にずっしりと重くのしかかってきました。けれども、気丈な母は、いつまでも悲しみに沈みこんではいませんでした。女手ひとつで私を育てあげるためには自らオーナーとなって、事業を興こさなければならないと決意したのでしょうか。それにしても見通しは険しく、道のりはあまりに遠く感じられたことでしよう,母が事業を興こすとすれば、

永年研究を続け、そしてその工場生産の可能性を見出した自然成分の化粧品の発売以外には考えられません。けれども、そのためには工場用地を確保しなければなりませんし、顧客層を確立しなければなりません。ゼロからスタートするのですから、為すべき仕事は山積しておりました。

 そんな私たちの生活ぶりを見て、イギリスにいる父の親族たちは、私をシーガー家の一員として、宮廷婦人として育てあげようと母に申し出ました。けれども母は、その無神経な申し出にたいそう腹を立て、「自分の娘の面倒は自分で見ます。アメリカで一流の作法で育てますから、どうか私たちにはかまわないでください」とはねつけたのでした。それでも、小さな子供というのはつねに手のかかるものであり、夜となく昼となく精内的に家事をこなしてゆく祖母の協力がなければかなわぬことであったに違いありません。

第2部少女時代へ

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